新聞記事における時間記述と話法が読者に与える効果についての考察

久保 裕章

 本研究は、新聞記事における文体の違いが読者に与える影響を、死亡記事を使い、特に実際の新聞の文体の違いに大きく作用していると思われる時間記述と話法という二要素、及びその記事に書かれている故人との交互作用に着目して検討したものである。ここで、いう文体とはR.バルトがエクリチュールと呼んだものの和訳であり、言語体によって水平方向に、文体(と訳されているが、本文中の文体とは意味が違う)によって垂直方向に制約されている書き手が社会に向かってものを書く時に選択せなばならない(そして、同時にその選択を行った際に多くの制約を書き手に負わせる)ある形式のことを言う。しかし、この文体と呼ばれる物は無数の要素が絡みあって出来あがっており、全ての要素を操作する事は事実上不可能であると考えられる。この際、上述の二要因だけを動かし、他の諸要因を干渉変数として排除する事の危険さと、実験という検討手段をとる以上そうすることはやむを得ない、という立場との折衷案を、一旦、読者というこの実験が主として対象としている存在を敢えて外し、「書く」という行為に中心を据えた立場から、考察を行うことによって、模索した。

 この際、書き手、文体、内容という三つの極に分かれた従来のモデルが上手く現実を表現しきれていないという反省から、モデルの再考を行い、実は文体と内容という二つの極は、お互いを影響し合っている二つの個別な極ではなく、互いを個別の事実というレベルまで侵食しあっているほぼ一つのものであるという新しいモデルを作成した。

 また、実験材料として、文体のニ要素それぞれとの交互作用が顕著に表れやすいように会話文に特徴があり、短期間に多くの挿話を残した人物=中村光代、会話文に特徴が無く、人生全体に渡って細々と挿話を残した人物=中村伊之助という二人の架空の人物の死亡記事を使用した。

 実験に際しては、四十八人(うち、十人が未回答)を被験者に、人物*(時間記述*話法)の混合型三要因実験を用い、記事の取り上げ方の客観性、書き方の客観性、故人の人物像の把握のしやすさ、故人の人物像の誤解のしやすさ、文章の不自然さ、故人が波瀾に満ちた人生をおくったという印象、故人が特徴的な人物だったという印象、故人が有名であったという印象の八つの従属変数について、四点尺度で判定してもらった。

 結果、紀伝体的文章、直接話法は、編年体的文章、間接話法に比べ、一読でその故人の人物像を把握させ(この際、紀伝体的文章のみ、その人物像が誤解を蒙っているかもしれない、という印象を与える)、その人物が特徴的であったことを印象付けるが、記事の取り上げ方について主観的な印象を与えるということが分かった。また、人物との交互作用については、会話文に特徴があり、短期間に多くの挿話を残した人物の場合の方が、会話文に特徴が無く、人生全体に渡って細々と挿話を残した人物の場合よりも、記事の取り上げ方、書き方の客観性、故人の人物像の把握のしやすさ、及び、その人物が波瀾に満ちた生涯を送り、特徴的な人物であったとの印象を与える、という事において、直接話法と間接話法で(直接話法の方が間接話法よりも、それぞれ、主観的、把握しやすい、波瀾に満ちている、特徴的、というかたちで)差が顕著に見られる事が分かった。

 この結果全体から考察される傾向として、読者が故人の人物像を把握しようとする際に、故人の挿話そのものよりも、故人の言葉を重視する(また、挿話が伝えられ方によって誤解を生み出しやすいと考える)傾向がある。このことは、会話文が、地の文の情報を凝縮したかたちで表現する、という観点から説明が為されると同時に、エクリチュールという概念の定義からも支持される。つまり、エクリチュールが書き手がその言明をするに至った状況に先だって、書き手がどの集団に属しているかを表明し、読み手がそのエクリチュールの採択者として書き手を規定するというものである。このエクリチュールの概念はグループダイナミクスと合わせて社会心理学に導入されることによって、様々な問題に新しい側面から光を当てることを可能にすると予想される