甘えの構造と援助適切性判断〜甘える人は助けを求める場合と求められる場合で援助の適切性判断に違いは見られるか〜
長島洋介
親友に「お金を貸して欲しい」と頼まれたときに、あなたなら貸しますか。必ず可能な限り貸す人もいれば、絶対に貸さない人、お金が必要な理由によっては多少なりとも貸す人など様々でしょう。ときには、自分のほうから近しい友人に何らかの理由でお金を貸してもらえるよう頼み込むこともあるでしょう。
この例のように、私たちは日常生活において親しい人から何かを頼まれたり、親しい人に何かを頼んだりしながら、支え支えられて生きています(浦、1992)。ただし、必ずしも誰かの頼みを受け入れるわけではありませんし、自らの頼みが受け入れられるわけでもありません。ときには断ることも断られることもあります。では、なぜ相手からの援助要請があるにもかかわらず、ある場合には受け入れ、ある場合には拒絶されるといった違いが生じてしまうのでしょうか。その背景には個々人の持つ援助像、つまり何が適切な援助であるかを見極めるために各々が持つ私的な判断基準があるものと考えられます。提供された、もしくはこれから提供されるだろう援助が適切であると当事者が感じるかどうかは、提供者が持つ潜在的な援助資源やストレッサ−によって引き起こされた対処欲求coping
requirements (Cohen & Mckey,
1984)のみならず、各人の持つ「援助とはこうあるもの」という援助に関する規範が重要な影響力を持っているのです。そしてその援助像は、それぞれの個人要因(例えば自尊心や自己感など)や価値観(ある種の規範意識など)に基づき形成されるものだと考えられます。
そして近年、日本特有な概念である甘えが注目を浴びています。この概念は土居(1971)が日本人の心理機制の鍵概念になるものとして取り上げたものです。この甘えとは、日常的な意味では、必要以上に人を頼りにしてしまうこと、主に親しい人に無茶な頼みごとをすることであると考えられます。例えば、自分で買えるのに誰か親しい人にわざわざ頼んで買ってもらうことなどは、一般的には相手に甘えていると考えられることになります。このような無茶で過剰な要求は客観的にみて不適切な行為であるように見えますが、甘える人は意識的、もしくは無意識的にこのような過剰な援助要請をしてしまうのです。このような点から、甘える傾向は各人の持つ援助像の形成に何らかの影響を与えているものと考えられます。
そこで本研究では、個人要因として援助要請に深く関連すると考えられる「甘え」を取り上げ、私的な援助像に甘えという個人要因がどのように関わってくるのかに関して学生調査により考察することにしました。そこで、甘えの持つ特性から甘える傾向にある人ほど援助に対する適切性を広く見積もるようになる、すなわちより多くの援助を適切なものとして認知するようになるという仮説を立てて検証することにしました。甘える人ほど所有している援助像の許容範囲が広まっているということです。加えて、甘えに関する社会心理学的な定義「自分の行動や願望が相手からは不適切とみなされているにも関わらず、相手がそれを受け入れてくれることを期待すること」(山口,
2003)も考慮に入れながら、甘えの持つ特性として甘えたいという欲求と無茶な欲求でも相手は受け入れてくれるはずだという相手への期待感があるものと考え、どちらが援助像に強く影響を与えているかに関しても検証しました。
さらに、ただ個人要因のみから援助像に対して迫るのではなく、この個人要因に加えてこの個人要因と状況要因との交互作用まで踏み込むことにしました。今回取り上げた状況要因は、援助の適切性を判断する際に援助を求める立場から判断するのか、それとも援助を求められる立場から判断するのかという判断者の置かれている視点です。甘えるということは相手に援助を要請する行為の一種なので、甘える人は援助を求める立場に立ったときにのみ適切だと判断する援助の範囲が広まるものと考えました。この点に関しても検証することにしました。
分析結果からは、仮説どおり甘える人ほど所有している援助像の範囲が広がっていることが示唆されました。さらに甘えに関する特性のうちでも相手への期待感のみが援助像を広げる効果を持っているものと考えられます。状況要因との関連では、予想通り援助を求める立場から援助の適切性を判断した場合にのみ、甘える人ほど適切な援助像が拡大されて認知されていることが見て取れました。以上の点から、今回の調査では甘えという個人要因が各々の援助像の形成に何らかの影響力を持っていることが示唆される結果となりました。ただし今回の研究で示唆されているのは認知の段階までで、さらにこれが行動に移る際にどのようなプロセスを経るのかに関して、さらなる研究、考察が必要であるものといえます。